私の宗教論

私の宗教論
教育学部3年 伊藤拓也

「日本には宗教がない」とよく言われるが、はたしてそうだろうか。確かに、冬はクリスマスを祝い、お正月は神社に行き、家には仏壇があり・・・と一つの宗教をしっかり信仰しているというわけではないが、日本人の中にある「価値観」を宗教と捉えることはできないだろうか。

 欧米諸外国の学校には「道徳」という授業や「生活指導」というものがないらしい。日本では小・中学校まで通して道徳の授業は存在し、生活指導に至っては高校卒業まで続くのである。道徳の授業では「戦争をなくそう」「差別はいけないことだ」「いじめをやめよう」といった類のあらゆる「規範意識」を教師から学ばされる。生徒指導では「他人に迷惑をかけてはいけない」「先生の言うことは聞きなさい」「校則を守りなさい」ということを教師から押し付け(?)られる。特に生徒指導については、教師は頭を悩ませながらも生徒との対立を延々と繰り返している。しかし、こうまでしても「道徳」や「生徒指導」をしなければいけない理由があるのだろう。そうしないと日本の学校の秩序、いや日本の社会自体の秩序が保たれないから、学校教育の場においてこのような取り組みをするのだろう。

 では、欧米諸国はなぜ「道徳」や「生徒指導」がなくて学校の秩序が保たれているのだろうか。それは「宗教」があるからだと私は考える。教会や家庭など学校以外の場でも宗教教育がなされているため、それによって規範意識が養われているのではないか。わざわざ学校の教師が「他人に迷惑をかけてはいけないのですよ」と言わなくても、それを「神の教え」をして知っているからではないだろうか。例えばキリスト教という絶対的な価値観のもとに、学校生活における規範も社会の規範も作られているのだろう。

 逆に考えると、日本の規範意識の根本はどこに存在するのだろうか。もちろん戦前は「教育勅語」という絶対的規範が存在したが、それがなくなり、特定の宗教にも頼っていない日本社会ではこの根本を定めるのは難しい。
 しかし、ほとんどの日本人において規範意識は同じ方向をむいていて、たとえ宗教がなくとも「これは良いことだ」「これは悪いことだ」というのは、みんなが共通して持っているものである。義務教育のおかげなのか、法律のおかげなのか、はたまた日本人に伝統として受け継がれている「武士道」のような精神なのか。それはよくわからない。
 ただひとつ言えることとして、日本人は宗教がなくてもよりどころとする価値観を持ち、善悪の判断をすることができているということである。確かに、昨今の青少年の犯罪に対するマスコミの報道を聞いていると、今の子どもたちには規範意識が少ないというのがわかる気もする。森前首相が「教育勅語の復活を」と失言したのも、あながち共感できないではない。しかし、やはり宗教に頼らずとも国民が一致する価値観を持っているということは否定できないだろう。

 この日本人の規範意識・価値観を、ある意味一種の「宗教」と捉えることはできないだろうか。宗教とは迷ったとき、悩んだときの心の拠り所だ、というふうに捉えるならば上記のように考えることもできるだろう。しかしこれらがしっかり明文化されていないことが青少年の問題などにつながっているのもまた事実である。いっそのことこれらの慣習的規範意識を「経典」という形にしてしまったら、それは日本人に受け入れやすい、むしろもともと意識の中に持っている「宗教」となりうるのではないだろうか。
以上 2003.10.19