課題作文とは関係ありません

「自殺私見」と「大学で得たかったこと」のあいだ


昨日、自殺をしようかと一晩中悩んだ。

高校時代の僕にとって、大学生活は「夢の世界」だった。好きなだけ遊び、自由に勉強し、一生モノの仲間を作り、恋人も作り、と楽しいことが溢れてかえっているのが大学生活だと思っていた。

しかし大学に入って2年半。もちろん楽しいことは山のようにあったが、現実は「夢の世界」ではなかった。友人関係に悩み、恋愛に悩み、将来への不安も重くのしかかる。日々やらなければいけないことが次々と押し寄せ、それをこなすために毎日が過ぎていく。自分がやりたいと思って始めたことでも、気が付けばやることが義務に、そして負担になっている。それをやり通せない自分の能力のなさに落胆し、現実逃避し、そうする間にもやることが増えていく。そんな毎日のくり返し。
辛くて辛くてしかたがない。もうここには「夢」なんてない。こんなときに助けてくれる仲間もいない。自分はひとりなんだ。このまま生きていてもどうせ辛いことばかり。

「辛いんだったら休めばいい」そう人はいうけれど、休んだら他の人に迷惑がかかる。ゼミの発表もあり、家庭教師は生徒がテスト前だ。逃げたくても逃げられない。
もちろん死んでしまったらさらに迷惑がかかる。

逃げても迷惑、死んでも迷惑。じゃあ、このまま生きるしかない。たとえ辛くても生きるしかない。


じゃあ生き方を変えればいいんだ。もっとポジティブに。自分をわかってくれる人はきっといる。本当に休みたいと言えばきっとわかってくれるはず。たっぷり休んで、好きなことをすれば気が晴れるだろう。やらなきゃいけないことも人に手伝ってもらって、こつこつ片付けていけばいいじゃないか。大丈夫。がんばろう。


そんな当たり前のこと、僕に言わないでくれ。

課題作文とは関係ありません

「自殺私見」と「大学で得たかったこと」のあいだ


昨日、自殺をしようかと一晩中悩んだ。

高校時代の僕にとって、大学生活は「夢の世界」だった。好きなだけ遊び、自由に勉強し、一生モノの仲間を作り、恋人も作り、と楽しいことが溢れてかえっているのが大学生活だと思っていた。

しかし大学に入って2年半。もちろん楽しいことは山のようにあったが、現実は「夢の世界」ではなかった。友人関係に悩み、恋愛に悩み、将来への不安も重くのしかかる。日々やらなければいけないことが次々と押し寄せ、それをこなすために毎日が過ぎていく。自分がやりたいと思って始めたことでも、気が付けばやることが義務に、そして負担になっている。それをやり通せない自分の能力のなさに落胆し、現実逃避し、そうする間にもやることが増えていく。そんな毎日のくり返し。
辛くて辛くてしかたがない。もうここには「夢」なんてない。こんなときに助けてくれる仲間もいない。自分はひとりなんだ。このまま生きていてもどうせ辛いことばかり。

「辛いんだったら休めばいい」そう人はいうけれど、休んだら他の人に迷惑がかかる。ゼミの発表もあり、家庭教師は生徒がテスト前だ。逃げたくても逃げられない。
もちろん死んでしまったらさらに迷惑がかかる。

逃げても迷惑、死んでも迷惑。じゃあ、このまま生きるしかない。たとえ辛くても生きるしかない。


じゃあ生き方を変えればいいんだ。もっとポジティブに。自分をわかってくれる人はきっといる。本当に休みたいと言えばきっとわかってくれるはず。たっぷり休んで、好きなことをすれば気が晴れるだろう。やらなきゃいけないことも人に手伝ってもらって、こつこつ片付けていけばいいじゃないか。大丈夫。がんばろう。


そんな当たり前のこと、僕に言わないでくれ。

自殺私見

自殺私見
教育学部3年 伊藤拓也


何度自ら命を絶ってみようと思ったことか。自殺なんて簡単にできる。部屋の窓から飛び降りれば簡単に死ねるのだから。

私は別に人は自殺をしても構わないと思っている。自分の人生、死のうが生きようがその人の自由だと思うからだ。しかし、ただひとつ「人に迷惑を掛けてはいけない」という条件を満たせばだ。その人が死ぬのは自由だが、それで生き残る人に苦痛を与えてはならないと思う。

例えば電車への飛び込み自殺だ。聞くところによると、電車への飛込みをして、電車を止めてしまった場合、運休による損害賠償などを遺族が払わなければいけないそうだ。自分が死ぬことによって家族に多額の金を負担させるなどもってのほかの行為だ。
また、「僕は死にましぇ〜ん」のように、トラックに引かれるというのも、トラック運転手にとっては多大なる迷惑だ。これからの運転のトラウマになるかもしれないし、下手をすればわき見運転と間違われ刑事事件にも発展するかもしれない。自分の自殺によって赤の他人の人生を狂わせてはならない。

トラウマ、という点で言えば、自殺した姿を人に見せるのはよくない(警察など、職務上の人はしょうがない)。ビルから飛び降りる瞬間、または落ちた後の姿を見たら、他人にとってむごいトラウマとなるだろう。ましてや子どもにそんな姿をみせようものなら、その子は一生心の傷を持ち続けるかもしれない。部屋で死んだとしても、家族・友だち。大家さんなど第一発見者の心の傷を考えないといけない。それがあるので私は窓からの飛び降りができないのだ。


しかしそれを考えると、死んだ姿を見る見ないに関わらず、自殺というのは少なからず周囲に心の傷を負わすものである。例え仲の良くなかった人であっても、クラスメートや同じ大学の人が自殺をしたとなると心が痛むだろう。ましてや友人や家族の悲しみは計り知れない。私は自殺したくなるときには必ず、友人の「なんで相談せんかったんや!」と泣きながら怒る姿が思い浮かぶ。家族が、息子を遠く北海道へ一人暮らしさせたことを悔やむ姿が思い浮かぶ。そんな周りの人がいるからこそ私は自殺ができない。

たとえ今が辛くても、自分は独りだと思っても、周りにはこんなに悲しんでくれる人がいる。そう思えば自殺せずに今を頑張ろうと思えるのである。

私の宗教論

私の宗教論
教育学部3年 伊藤拓也

「日本には宗教がない」とよく言われるが、はたしてそうだろうか。確かに、冬はクリスマスを祝い、お正月は神社に行き、家には仏壇があり・・・と一つの宗教をしっかり信仰しているというわけではないが、日本人の中にある「価値観」を宗教と捉えることはできないだろうか。

 欧米諸外国の学校には「道徳」という授業や「生活指導」というものがないらしい。日本では小・中学校まで通して道徳の授業は存在し、生活指導に至っては高校卒業まで続くのである。道徳の授業では「戦争をなくそう」「差別はいけないことだ」「いじめをやめよう」といった類のあらゆる「規範意識」を教師から学ばされる。生徒指導では「他人に迷惑をかけてはいけない」「先生の言うことは聞きなさい」「校則を守りなさい」ということを教師から押し付け(?)られる。特に生徒指導については、教師は頭を悩ませながらも生徒との対立を延々と繰り返している。しかし、こうまでしても「道徳」や「生徒指導」をしなければいけない理由があるのだろう。そうしないと日本の学校の秩序、いや日本の社会自体の秩序が保たれないから、学校教育の場においてこのような取り組みをするのだろう。

 では、欧米諸国はなぜ「道徳」や「生徒指導」がなくて学校の秩序が保たれているのだろうか。それは「宗教」があるからだと私は考える。教会や家庭など学校以外の場でも宗教教育がなされているため、それによって規範意識が養われているのではないか。わざわざ学校の教師が「他人に迷惑をかけてはいけないのですよ」と言わなくても、それを「神の教え」をして知っているからではないだろうか。例えばキリスト教という絶対的な価値観のもとに、学校生活における規範も社会の規範も作られているのだろう。

 逆に考えると、日本の規範意識の根本はどこに存在するのだろうか。もちろん戦前は「教育勅語」という絶対的規範が存在したが、それがなくなり、特定の宗教にも頼っていない日本社会ではこの根本を定めるのは難しい。
 しかし、ほとんどの日本人において規範意識は同じ方向をむいていて、たとえ宗教がなくとも「これは良いことだ」「これは悪いことだ」というのは、みんなが共通して持っているものである。義務教育のおかげなのか、法律のおかげなのか、はたまた日本人に伝統として受け継がれている「武士道」のような精神なのか。それはよくわからない。
 ただひとつ言えることとして、日本人は宗教がなくてもよりどころとする価値観を持ち、善悪の判断をすることができているということである。確かに、昨今の青少年の犯罪に対するマスコミの報道を聞いていると、今の子どもたちには規範意識が少ないというのがわかる気もする。森前首相が「教育勅語の復活を」と失言したのも、あながち共感できないではない。しかし、やはり宗教に頼らずとも国民が一致する価値観を持っているということは否定できないだろう。

 この日本人の規範意識・価値観を、ある意味一種の「宗教」と捉えることはできないだろうか。宗教とは迷ったとき、悩んだときの心の拠り所だ、というふうに捉えるならば上記のように考えることもできるだろう。しかしこれらがしっかり明文化されていないことが青少年の問題などにつながっているのもまた事実である。いっそのことこれらの慣習的規範意識を「経典」という形にしてしまったら、それは日本人に受け入れやすい、むしろもともと意識の中に持っている「宗教」となりうるのではないだろうか。
以上 2003.10.19