小さき者

 僕が自分のことを「小さき者」と感じるのは、信号無視をしてしまったときだ。信号無視。それはほんの数十秒の余裕さえも持てない「小さき者」のする行為である、と。


 信号無視をするのはどういうときか。遅刻しそうになって1分1秒を争っている場合は別として、例えば深夜車の来ない交差点で、信号が変わるのを待たずに横断する場合のことを考えよう。
それは「青信号になるまで待てない」時である。しかし、べつに何分も信号で待たされるわけではない。せいぜい平均30秒も待てば信号は変わるのではないだろうか。「車が来ない交差点でバカ正直に信号を待つのは時間の無駄だ」という人もいるだろうが、果たしてそれほどの時間の無駄だろうか。朝なかなか布団から出られずにモゴモゴしている時間や、ボーッとテレビを見ている時間、おもしろくもない授業に出ている時間(これは冗談)の方がよっぽど時間の無駄である。これらの時間の無駄を考えれば、信号待ちによる時間の無駄なんてほんの誤差程度でしかない。ちりも積もれば山となる、というかもしれないが、たとえ一日に2回、30秒の信号無視をしたとしても、1年間で<30秒×2回×365日=6時間ちょっと>である。6時間なんて正月3が日でダラダラテレビを見ている時間をなくせばどうとでもなる時間である。
 こんな微々たる時間が「もったいない」と言って信号無視をするのは僕にとって「小さき者」がする行為に他ならない。


 また、「そんな簡単な交通ルールさえ守れないのか」とさえ思ってしまう。ただ信号が変わるまで待っていればよいだけのルール。車で一旦停止線で止まるのは多少なりとも経験や技術がいると聞いたが、信号を守るのなんて誰でもできるルールである。こんな簡単な法律を守らないで社会人と言えるのだろうか。少なくとも子どもがいる前では信号無視をしないでほしい。知っている子であれ知らない子であれ、大人の行いというのはその子に与える影響は大きいものである。「信号無視はよくない」と無垢に信じている子どもの前で、それを踏みにじるようにルールを破るのだけは止めてほしいと節に願う。


 したがって僕は信号無視をする人を「小さき者」だと思う。それは電車の中で携帯電話の電源を切らない人や歩きタバコを吸う人に対しても思う。ほんの少しの我慢をしさえすればできることなのになぜその決まりを守れないんだ、と思う。我慢できない人=余裕がない人=「小さき者」だ。
 しかし一番「小さき者」。それはこんな文句を並べておいてやはり実行することができない僕自身だ。タバコは吸わないが、信号無視はついついしてしまうし、電車の中でもメールを打ってしまう。それが悪いことだとわかっているのに守れない。これこそ「小さき者」だ。「信号が変わる時間くらい待ってやるぜ」という余裕がほしい。この余裕を持つことが「小さき者」から脱却して「大きい大人」になる方法のひとつであると僕は思っている。