私のクリスマス論

 クリスマス・イブの夜、私のある友人は言った。「クリスマスなんてキリストの誕生日じゃんかよ。仏教徒の日本人がなんでクリスマスだからって喜ぶんだよ!オレは別に普段と変わんねーぜ」と。彼(彼女いない暦2年半)は私が仲間内で主催したクリスマスパーティ(通称:シングル・ベル)でそう言ったのだ。
 ほら来た。やっぱりこういうことを言う輩はいる。「仏教徒の日本人がキリストの誕生日であるクリスマスを喜ぶのはおかしい」この意見こそがちゃんちゃらおかしいということに気がついていない。こんなことを言う奴は必ず1クラスに13人くらいはいるもんだ。



 おかしいのは、まず「仏教徒の日本人が」という点。たしかに家に仏壇があり、寺で法事をし、「他力本願」などの仏教用語に囲まれた生活をしている日本人は多い。しかし私は日本人の大半は仏教徒とは呼べないと思っている。宗教の信徒というものは、その教えを習い、その神を常日ごろから敬っている人たちのことのはずである。しかし現代の日本人の誰が聖書の一説さえ暗唱できないだけでなく、仏教の経典を諳んじることができるというのだろうか。誰が素敵な女の子と出会ったときに「ああ、これは仏さまのお導きに違いない」と思うだろうか。したがって、私は「日本人は仏教徒だ」という意見には反対せざるを得ない。
 さらに仮に日本人が仏教徒だったとしてもキリストの誕生日を祝うことがおかしいことだとは思わない。別に他宗教の神を祝ってもいいではないか。そんな考え方をするから宗教戦争なんかが起こってしまうのだ。仏教徒キリスト教信者もイスラム教信者もヒンドゥー教信者もオウム真理教信者もみんなで仲良くクリスマスを祝えば、宗教戦争サリン事件もなくなるに違いないのだ。


 次に指摘したいのは「キリストの誕生日であるクリスマスを喜ぶ」という点だ。クリスマスの電飾の下で恋人と手をつないで街を歩く人々の中に、果たしてクリスマスを「キリストの誕生日」だから喜んでいる人はいるのだろうか。彼らはただクリスマスを「そういうイベントだから」喜んでいるだけなのである。バレンタインデーにチョコレートを贈る習慣が日本の製菓メーカーによって意識付けられたように、クリスマスも商業政策といっしょに「恋人と過ごす日」と意識付けられたに違いない。それは恋人と過ごす日として、クリスマス・イブがクリスマスよりも重視される傾向が物語っている。所詮、恋人とラブホテルで過ごし、クリスマスを迎えたいがためにイブが重要視されるのであって、結局日本におけるクリスマスというのは「恋人と過ごす日」という位置付けでしかないのだ。よって、「キリストの誕生日だからクリスマスを喜ぶ」のではなく「クリスマス(恋人と過ごす日、恋人がいない人はさみしがらなければいけない日)だからクリスマスを喜ぶ」のだ。別にこれが「天皇誕生日=恋人と過ごす日」であっても「文化の日=恋人と過ごす日」であっても日本人は大して困らないはずである。要は固定概念の問題なのだ。


 そしてそもそも「日本人がクリスマス(一般的に恋人と過ごす日であると考えられている日)を喜ぶのはおかしい」という意見も否定しなければならない。人間には「めでたい日」というのが必要なのである。別に年が明けたからといって何があるわけでもないが人々は皆祝う。誕生日を迎えたからと行って何か体や精神に変化があるというわけでもないが人々は皆祝福の言葉を投げかける。そう、人はとにかく何かに託けて祝いたいのだ。それは花を見ることが目的のはずなのに、花を見もしないで酒ばかり飲む花見のようなものなのだ。
 人生というものは幸せなこともあるが、その分辛いこともたくさんある。その中で人は「楽しみ」を求める。しかもその楽しみはただ偶然にやって来るのを待つだけでは物足りない。そこで毎年確実に楽しみが来るように「祝う日」というものを作るのだ。よって毎年やってくるクリスマスという「楽しむべき日」は、人生を楽しく過ごす上で欠かせない人間の知恵なのだ。楽しいのには理由はそれほど重要ではない。「キリスト(という知らない人)の誕生日」というだけでそこに楽しむ理由が存在するようになるのだ。



 よって私は結論付ける。「日本人がクリスマスを楽しんでもいいじゃない」と。べつに日本人は仏教徒じゃないんだし、たとえ仏教徒であったとしてもクリスマスを楽しんでもいいじゃない。べつにキリストの誕生日なんて関係なく、何かに託けて楽しんでもいいじゃない。べつに一年に一回くらい堂々と楽しめる日を設定しちゃっていいじゃない。少なくともクリスマスがあるおかげで日本の12月は明るくイルミネートされるのである。もしクリスマスがなかったら雪にこごえたまま正月を迎える羽目になるかもしれない。
 要はキモチの問題なのだ。恋人がいない奴がひがみさえしなければクリスマスは誰にとってもうれしい日になる。日本人みんなでクリスマスを祝おう。そうすれば日本は、いや世界はきっと楽しく元気になるはずだ。そんな日があってもいいじゃない。

「僕」のこだわり

 僕のこだわりは何だろうかと一週間考えた。そしてひとつだけ思いついた。このこだわりは当然のように僕の一部になっていて、こだわっていることさえも忘れているものだった。


 僕のこだわり。それは自分のことを「僕」と呼ぶことだ。


 小さい頃はみんな当然のように自分のことを「僕」と呼んでいた。僕も当然のように「僕」と呼んでいた。しかし、中学二年生のある日、周りが「オレ」だらけになっていることに気がついた。その当時クラスで「僕」と呼んでいるのは5人もいなかったように記憶している(もちろん授業の発表などでは「僕」と呼ぶ人もいたが)。高校に入るとさらに「オレ」は増加し、クラスで僕ひとりしか「僕」と呼んでいないことを知って驚いたこともあった。大学に入った今でもクラスやサークルの友達を見ると、ほとんどが「オレ」と呼んでいる(とはいうものの、大学は多種多様?な人がいるせいか、高校よりも「僕」やそれ以外の呼び方が多い気がする。特にこの『編集会議』はそうだ)。


 なぜ男は自分のことを「オレ」と呼ぶのだろう。小さい頃はみな「僕」なのに(幼稚園くらいで「オレ」と呼ぶ奴もたまにいるが)。この疑問に関して、中学の時に僕が出した答えは『カッコいい男の自覚』だ。小学校高学年から中学校にかけて、まさに「僕」から「オレ」へと変化していく人たちを何人も見てきた。それが意味するものは『「僕」なんて子どもっぽい言い方をやめて、男らしい「オレ」になりたい』というキモチの変化だったのではないか。すなわち、「僕」=まだまだ子ども、「オレ」=カッコいい大人の仲間入り、という観念の下に、みな呼び方を変えていくのだというふうに僕は結論づけたのだ。


 僕自身は「僕」から抜け出せなかった。カッコいい大人にはなれなかったのだ。高校のときにクラス替えがある度に「オレ」になろうと試みた。でも結局「オレ」と呼ぶ自分が恥ずかしくて「オレ」にはなれなかった。そして僕は思った。『「オレ」と呼べるだけの男になろう』と。呼び方から入る男ではなく、本当に「オレ」と呼んでも恥じないような男になってから呼び方を変えようと思ったのだ。


 しかし未だに僕は「僕」から抜け出せない。この呼び方に慣れすぎてしまってもう変えようという気もあまり起こらないのだが、やはりまだ自分は「子ども=僕」なのだ。「オレ」と呼ぶには恐れ多い−、このような気持ちが常について回るのだ。それは僕の「大人」というものに対する執着が現れているのかもしてない。カッコいい大人になりたい、ならなきゃ、この考えが僕にはまとわりついている。呼び方にも、生活にも。そう、自分の中での本当のこだわりは「理想の大人になる」ということなのかもしれない。





−あとがき−
 「僕」=まだまだ子ども、「オレ」=カッコいい大人の仲間入り、という考え方は、昔女友達に何人か話して共感してもらえました。でも男の人に話したことがないので、みなさんどう思うんですかね?意見ください。
 ちなみにこの編集会議のメンバーは、うぬまさん・editorsさん・高橋さん→オレ、田村さん・劉さん・古賀先生→僕、酒出さん→私、でしたっけ? 同じ呼び方でも「ぼく」「ボク」「僕」でこだわる人いますよね。僕は大学1年までは「ぼく」だったんだけど2年から「僕」に昇格しました。

しあわせってなんだろう

 風呂上りの一杯


しあわせってなんだろう?
僕は昨日、ちょうどこの事を考えていた。
就職活動が目の前にせまり、自分がどんな仕事に就きたいか考えなくてはならない。
どんな仕事がしたいのか?どんな生活がしたいのか?
そもそも僕にとって「しあわせ」ってなんだろう?


おいしいものを食べているときしあわせだ。
自分のために、人のために料理を作っているときはしあわせだ。
スーパーで安売品を買うときしあわせだ。
朝目が覚めて、まだ3時間寝られると知ったときしあわせだ。
中日ドラゴンズの試合を見ているときしあわせだ。
テレビを見ながら酒を飲んでいるのはしあわせだ。
街でかわいい女の子を見かけたときしあわせだ。
好きな子といっしょにいるときしあわせだ。
コンビニで立ち読みしてるときしあわせだ。
夜中に友達と飯を食いに行くときしあわせだ。


なにげない生活。
それが僕にとってのしあわせ。
別にオカネモチにならなくてもいい。
大きな仕事ができなくてもいい。
社会の役に立てなくてもいい。


自分らしく生きる。
これがしあわせだ。

何度も空耳のベルが鳴り、体を起こす

卒業証書


何度も空耳のベルが鳴り、体を起こす。いつもなら憎らしい目覚ましが怒鳴ってくる時間。でも今日から目覚ましはもういらない。



卒業式の次の朝、悲しいことにいつもの時間に目が覚めた。いつもならどれだけ目覚ましが鳴っても起きやしないのに、もうどうでもよくなってから起きられるなんて。布団にくるまっていた。だけどもう眠くない。しょうがなく起き上がった俺は、シャワーを浴び、CDのスイッチを入れ、冷蔵庫からオレンジジュースを取り出して飲んだ。トースターでパンを焼いている間に卵を焼く。こんな優雅に朝食を取ったのは何ヶ月ぶりだろう。郵便受けからとってきた新聞を読みながら朝ごはんを食べた。


もう学校に行かなくてもいいのか。卒業。大学の勉強はおもしろくなかった。大学を辞めてしまおうかと何度も思った。大学の授業なんて俺には苦痛の塊だった。先生はただ配ったプリントを読み上げているだけ。声が小さくて聞き取れないし、かといって聞いていても何を言っているかさっぱりわからない。時間の無駄だと思ってサボっていたら、いつの間にか出欠をとられていた。またひとつ、またひとつと単位が消えていく。しかし、授業は俺にとっては「単位」でしかない。単位以上のものを得られる場ではなかった。「何のために大学に行っているのか」。その答えは「卒業証書をもらうため」でしかなかった。担当教官の言われるがままに卒論も書いて、俺は昨日その「卒業証書」をもらったのだ。


何もすることのない昼はあまりにも暇だった。いつもならまだ寝ている時間なのに、なぜか今になって眠くならない。しょうがない、読書でもするか。1年前に買って放っておいた専門分野の本を手に取る。


気がつくと夕方になっていた。俺は夢中で本を読んでいた。止まらなかった。きっと俺は小学生が理科の実験をするときのような顔をしていただろう。


夜になって俺は泣いた。俺は4年間何をしていたんだ。こんなおもしろいことがあったのに、俺は何もしなかった。はじめからもっと勉強をしていたら。勉強の楽しみを知っていたら。俺の4年間の苦痛はなかっただろう。そしてもっと楽しい4年間を送れていただろう。もし、もっと、そうすれば・・・



目覚ましのベルが耳に響く。今度は空耳ではない。今日はきちんと授業に出てみよう。形だけの卒業証書はいらないから。

ふと思ったことその2

そういえば、いっしょに自主ゼミやってるけどみんなのこと全然知らないなーって思うんですよ。性格や考え方や文章のスタイルはよくわかるんですけど、何のサークルに入ってるだとか、どんな勉強をしているのかとか、どういう生活を送っているのかとか。あと出身とか。

せっかくいっしょにやってる仲間なんだからもっと知りたいんですよ。
だからダイアリー上で自己紹介しません?メンバーリスト作るよりもダイアリー上のほうが自由に書けると思うし。もちろんネットなのでプライバシーにかかわることは書かなくていいし、そもそも自己紹介も個人の裁量ということなんですけど。どうでしょう?

ふと思ったことその1

この前の会議に出て思ったことなんですけど、企画に対するつっこみだけじゃなくてもっとみんなで企画を作るような雰囲気だったらいいなーと個人的に思いました。木田さんが「私だったら受験前しか英語の参考書買わなかったなぁ」といったみたいな感じに、みんなで「自分だったらこの時期にこういう本がほしい」という議論ができたらおもしろいと僕は思います。というか僕がそういう会議に慣れてるからこの前の会議に違和感をもっただけなんですけどね(^^;)

ほんとの企業の会議ではないので、みんなで協力するところは協力する、つっこむところは厳しくつっこむというやり方でいいのではないかと思います。みなさんはどう思われますか?たぶん反対意見も多いと思いますけど。


あと、論点がバラバラしてたと思います。結局、「何年生くらいの人を対象とするのか」「英語を嫌いな人にも好きになってもらうのか、ある程度好きな人に読んでもらうのか」「学校で配るのか、書店でも売るのか」といったことがきちんと決まらないまま議論が進んでいたと思います。ここが一番重要なのにタイトルや執筆者を話し合ってもしょうがないのに、と思って聞いていました(なら言えよってかんじですよねm(_ _)m)。あ、みんなの中でまとまっていたのに、僕だけまとまっていないのならごめんなさいです。


ちょっと思ったので書いてみました。なんか意見ください。反論でもいいので。

課題作文

大学生活で得たいもの、得たかったもの。


―はじめに―

今回のお題、「大学生活で得たいもの、得たかったもの」。自分が今教育学部で大学についての勉強をしているということもあり、みんなが大学に何を求めているのかということに興味があって出してみたものです。だから「得たもの」ではなく「得たいもの」だったんですね。
で、3年生になって今さら「得たいこと」もないだろうと思って、「得たかったもの」という逃げ道を作ったんですが、3年前の気持ちなんて忘れてしまいました。だから残り1年ちょっとの大学生活で「得たいこと」を作文として書きます。



―残りの大学生活で得たいこと―

今年の夏、僕は「大学に入って成長したな」と感じた。初めての海外旅行。しかもひとりで1週間。高校までだったら絶対に行けなかっただろう。別に語学が上達したわけではない(むしろ語学力は落ちている…)。僕が大学で成長したところ、それは積極的になれたということだ。クラスの仮総代に立候補したこと、所属する学生委員会で『北大生の生活』の編集長になったこと、ひとりで旅行にいくようになったこと、教育学部の合宿の実行委員をやったこと、3年生にもなって教養の授業を取ったこと、そしてこのゼミに参加したこと。高校までの僕ならやりたいと思っても一歩踏み出すことのできなかったものに挑戦できるようになった。別にこれらのことをやること自体がすごいことだとは思わない。しかしこれをできるようになった自分を素直に喜びたい。


しかしまだまだやるべきことがたくさんある。
そのひとつは「人と話す」ということ。僕は人と話すことが苦手だ。人とふたりきりでいるのは気まずく感じてしまうし、スーパーなどで友だちと会っても自分から話し掛けることはまずない(たとえそれがすごく仲の良い友だちでも)。人といっしょにいて、話すことがなくなるのが恐いのだ。
だが社会に出ればこんな言い訳は許されないだろう。仕事上どうしても人と会わなければいけないだろうし、人と話すことによって信頼を得ることもしなければならないだろう。もちろん、職種によっては必要ないものもあるだろうが、少なくとも身につけておきたいもののひとつである。


もうひとつは「自律する」ということだ。これは大学に入る前から得たいと思っていたことだ。自分で生活リズムを作る、自分で進んで勉強する、自分で将来を探す、こんなこと大学生として当たり前のことだとは思うが、今の自分にはできていない。全然朝起きられないし、授業もサボってばかり、勉強もしない、就職活動もしない、人に迷惑をかけてばかり。こんなダラダラした生活を送るためにはるばる北海道に来たわけではない。残りの大学生活を有意義に過ごすためにも、社会人としてしっかり生きていくためにも自律した人間になりたいと思うのである。


つまり僕は大学生活で「大人になりたい」と願うのだ。高校生の自分にとって大学生は立派な「大人」だった。しかし自分はまだまだ大人になりきれていない。3年前の自分から見て「大人」だと思える自分になるために大学生活を過ごしたい。
そのために僕はもっともっと自分に挑戦したい。ひとりでヒッチハイクをしたり(運転手とふたりきりで話さなければいけないヒッチハイクは僕の天敵だ)、長い期間海外に行ってみたり。自分自身を追い込む空間に投げ出したい。もちろん普段の生活も自分に厳しくしなければならない。とりあえずは朝早起きすることからだ。


こんなふうに僕は大人への階段をさらに上っていこうと思う。ひとつひとつのことに立ち向かう。もちろん、この作文や編集会議に出ることも自分の成長だと信じて・・・。




―あとがき―

今回のお題ってすごく個人的なことなので、コメントしづらいかもしれませんね。すいません。でも、僕はこれを書いて、これからの大学生活を考えることができたので満足しています(自分勝手)。
この作文と矛盾するかもしれないけど、前期の作文で花田さんが書いていた「時間を無駄に過ごすということは大学時代にしかできない贅沢なことだ」というようなフレーズがすごく印象に残っています。将来のために大学生活を過ごさないといけない、と半ば強迫観念(?)みたいなものに駆られていた僕にとっては衝撃的なフレーズでした。のんびり何も考えずに過ごすのも大学生活の醍醐味ですよね。意識的にそんなことができる「大人」になりたいと思う今日この頃です。